プライバシーとメジャメントの両立が業界で注目され始めた2015年以来、データクリーンルームの活用を最前線で推進してきた電通の前川駿氏。トレジャーデータとLINEヤフーが共同開発したLINEデータクリーンルームをはじめ、広告領域を中心にクライアントのマーケティングで積極的に活用している。
AI活用をはじめアドテクノロジーが進化する中で、データクリーンルームを活用する意義とは何か。実際の運用ではどのようなポイントが重要になるのか。豊富な事例を交え、その実践的な活用方法を解説してくれた。
データクリーンルームの位置づけ
許諾などの負荷を抑え、データ活用を高度化する有効な手段
データクリーンルームの民主化
現在主流のプラットフォーム以外にもデータクリーンルームの提供・運用が広がる可能性
目次
データクリーンルームの意義とは
「企業のファーストパーティデータは、既存顧客の理解に極めて重要な役割を果たすが、それだけでは十分ではない」と、前川氏は指摘する。自社で把握できる範囲を超えて、既存顧客の日常的な行動や接点を把握したり、接点のない新規顧客の獲得を進めるためには、外部とのデータコラボレーションを、マーケティングの主体者であるアドバタイザーでグリップしていくことが重要であるという。
前川氏は、その実現に向けた有効な手段としてデータクリーンルームを位置づける。仮想的な環境のもとで、ID連携やデータ利用に関する許諾などの調整負荷を軽減し、ファーストパーティデータと提携企業やプラットフォームが保有するデータを組み合わせられる。データ活用とマーケティングの効率化・高度化を推進するうえで、重要な基盤となりつつある仕組みだ。

さらに、今後前川氏が重視するのが、マーケティングにおけるAIの活用だ。従来のデータコラボレーションでは、ID連携を行っても十分なマッチ率が得られず、PoCが進まないケースも少なくなかった。これに対し前川氏は、ID連携に依存せず、多様なデータを統合してインサイトとして活用できる点が、AIの強みだと指摘する。
前川氏は、データを活用して広告効果を高めることに主眼が置かれてきた従来の傾向に対し、データクリーンルームとAIの組み合わせにより、施策実行にかかるコストの低減も可能になりつつある点に着目する。AIによる推論は、ID連携と比較すると精度の面で制約がある一方、工数を抑えながらスピーディに施策へ反映できる。

精度とスピードを両立するデータ活用事例
では、実際どのようにAIやデータクリーンルームを活用し、マーケティングを高度化、効率化することができるのか。前川氏はいくつかの事例を挙げて解説した。
従来、外部データを利用してファーストパーティデータをリッチ化するには、顧客の許諾・同意を取得したうえでID連携を行う必要があった。前川氏が最初に示した金融会社の事例では、Treasure Data CDPに蓄積した顧客情報を統計加工することで、同意が必要ない範囲で顧客の特徴を明らかにしている。このデータを用いて、AIで自動化された広告プラットフォームの配信に対して介入したところ、最終CPA(ウェブ申込みなどではなく実成約)が37.5%向上した。

また、ある飲料のプロモーションでは、ファーストパーティデータを外部環境に出せる体制が整っていなかったため、通信キャリアが提供するデータクリーンルームを活用した。セキュアなデータコラボレーション環境のなかで、ファーストパーティデータから優良顧客を特定するシグナルのみを抽出し、キャリアが保有するIDと掛け合わせることで、ロイヤル顧客となる確率の高いユーザーに対して広告配信を行った。その結果、配信規模を維持したまま、On-Target Rateを30%向上させている。
自社の顧客データそのものを外部に移動させることなく、属性情報や購買履歴に基づくモデルのみを活用することで、データ利用の負荷を抑えながら広告配信の高度化を実現した。

ある嗜好品の事例では、LINEデータクリーンルーム(LDCR)をLINE広告に活用した。従来は購買データをもとにセグメントを作成していたが、セグメント間で顧客が重複することが課題となっていた。そこで広告主は、LDCR環境上でセグメント間の重複率と購買効果を分析し、セグメントを最適化。広告配信の効率化につなげたという。セグメントごとの実際の効果を可視化し、配信の無駄を抑えた点が特徴だ。
これらの事例は、データの扱いを工夫することで、顧客の特徴を捉えながら広告活用の精度を高めている。従来は難しかったスピードと精度の両立を可能にするアプローチだ。
よりダイナミックなデータクリーンルームの活用へ
また、「残念ながらまだ日本では見られない事例だが…」と前川氏は、米国で行われたバリューチェーン上の企業・団体によるデータコラボレーションを紹介した。自動車メーカー、販売店、業界団体が連携し、車体のIDと顧客IDを紐づけた。どの工場で製造された車がどこで販売され、その広告がどのように影響し、最終的にエンドユーザーの満足度にどうつながったか。企業の枠を超えて、一連の顧客体験を可視化する取り組みが進んでいるという。

前川氏は、日本においても同様の取り組みが広がる可能性があるとし、その背景としてクラウド型データクリーンルームの登場を挙げた。プラットフォーム企業が、その経済圏の広告効果を分析するために提供するデータクリーンルームが主流ではあるが、近年ではクラウドベンダーによる提供が進み、アドバタイザーである事業会社自身がデータクリーンルームを保有・展開できる環境が整いつつあるという。
「これまで大手のプラットフォーム企業に限定されがちだったデータクリーンルームの利点を、アドバタイザーやパブリッシャー自身が展開していけるようになるのではないか」
(前川氏)
パブリッシャーが保有するデータは、IDマッチングが難しい場合でも、IDグラフの活用によって顧客理解を深めたり、類似ユーザーの抽出に活用することができ、優良顧客を拡張する多次元の説明変数としても機能する。さらに、世の中の話題とユーザー個人の興味関心をかけ合わせて評価することで、フィルターバブルの解消にもつながる可能性があるという。
AIでマーケティングはすべて自動化されるのか?
データクリーンルームの専門家として、前川氏が最近よく受けるのが、「AIが進化する中でデータクリーンルームは重要なのか」という問いだ。
これに対し前川氏は、AI活用による同質化のリスクを指摘する。汎用的なAIにデータ分析や活用を委ねると、各社の施策が似通い、差別化が難しくなる可能性がある。実際、広告配信においてもP-MAXやAdvantage+といった自動化ツールは、一定期間運用するとパフォーマンスが低下する傾向がある。プラットフォームで計測可能な特性を持つユーザーに配信が偏るためで、セグメントやクリエイティブへの継続的な介入が必要になる。

こうした状況において、データクリーンルームは自社にないデータも含めてAIにインプットできる点に価値がある。「プロンプトを工夫すれば、データがなくてもAIが適切な答えを導き出せるのではないか」という見方もあるが、前川氏はAIの出力をそのまま信頼することの危うさを指摘する。AIは、多くの具体を少ない本質で説明する「Conceptual Compression」に長けている。人は考えなくても処理できる情報ほど正しいと感じる傾向があり、もっともらしく誤情報を生成するハルシネーションが重なることで、誤った意思決定につながるおそれがあるという。
こうした背景から、メディアプランニングやメディアバイイングなど、コストに直結する領域を現時点で全面的にAIに委ねるのは、現状は難しいと前川氏はみる。AIを有効に活用するためには、ビジネスの知見と適切なデータを構造化してインプットすることが不可欠だ。データクリーンルームの分析においても、AIへの入力を前提としたアウトプット設計が重要になる。
そんな前川氏が見据えるのが、AIワークフローによる人材の多能工化だ。データの計算ロジックそのものは従来どおりの手法で担保する必要がある。一方で、システムへの指示や実行といったプロセスは、AIエージェントが担う仕組みを構築することで効率化できる。
マーケターからエンジニアに依頼していたデータ分析など、これまで部署間での連携が必要だった専門性の高いタスクも、AIとの協働により一人で担えるようになる。数日かかっていたプロセスが数十分に短縮されるなど、業務の効率化が進むはずだ。

その先には、データクリーンルームの活用が前提となり、市場分析からターゲット設定、プランニング、クリエイティブ、効果計測に至るまで、マーケティングプロセスが統合されていくと前川氏は展望する。
AIは、専門領域ごとに分断されていた業務のあり方を改める可能性がある。人とAI、データの役割を設計し、全体として最適なマーケティングプロセスを構築していくことが重要なのだ。